「死」を考える ポジティブに迎えるためにはどうとらえるべきか
こんにちは、にあです。
皆さんは、「死」について、どれだけポジティブに考えられますか?
私が真剣に「死」を考えるきっかけは、強迫神経症(精神疾患)に苦しむ利用者たちをたくさん見てきたことです。
強迫神経症を学ぶなかで、森田正馬(精神科医)の本をいくつか読みました。
森田正馬は強迫神経症の原因の一部を、「死」や老化を恐れすぎるためと言っています。
「死」は誰にでも訪れますが、多くの方はこれをネガティブにとらえています。
実際「死」とは、一つの生命体としては、ネガティブな要素でしかありません。
しかし、種族で考えると、「死」はネガティブなことばかりではありません。むしろ、「死」があるから得られる価値観ばかりです。そして、「死」というシステムは、万物の法則の一部であるともいえます。
「死」を考えるとき、個体としての「死」と種族としての「死」を考えるべきだと思います。
そこでまずは、個体としての「死」を考えさせてくれた書籍をご紹介します。エリザベス・キューブラ・ロスの「死ぬ瞬間」です。
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「死ぬ瞬間」では、末期ガン患者など、余命宣告を受けた方たちの死を受け入れていく過程を5段階で説明していますが、私が注目したのはそこではなく、この5段階の最後の段階である「受容」に到達した方たちの取る行動です。「死」を受容した方たちは、共通して、自分の「死」の関心が薄れ、残される家族のことを考えるようになります。
これは、仏教でいうところの”解脱”と近いものだと思われます。
「死」があることで、次の世代のことを心配するきっかけとなり、次の世代のことを考えることで、自身の「死」から意識をそらしてくれます。
残した家族があるということは、この”解脱”に近い境地に至りやすいということです。
もちろん家族を持たない世間的に孤独と言われる方たちでも、他者との繋がりが強ければ、”解脱”に近い境地に至ることは可能です。
他者を思いやる心(慈愛)は「死」をも受け入れさせるということですかね。
次に、種族としての「死」の意味を考えさせてくれた書籍をご紹介します。
それは、スリランカ初期仏教長老アルボムッレ・スマナサーラの「苦の見方」です。
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「苦の見方」では、ざっくり言うと「苦」(ドゥッカ)とは、変化するということです。人間は、寝ていても寝返りをします。幸せを感じるほどのおいしい食べ物でも、それを食べ続けることはできません。同じことを繰り返しているとどんなことでも苦痛が伴うというのが、生き物の法則だと説いています。
そして、万物は変化し続けていて、変化しないものはこの世の中に一つも無いということも言っています。
変化しないことは、それが完璧であるとも言っています。
人間は、この完璧にあこがれて、永遠の生命を夢見ますが、完璧な存在とは、変化しないものです。
であれば、もはや生きていないということなのです。
生きているということは、変化が速いということです。
ここからは「苦の見方」を離れた自論となります。
つまり、有機物は無機物に比べ変化が速く、変化の遅い無機物は有機物にとっては道具として使われる。変化の速い有機物である生き物からすると、無機物は異物であり、生き物ではないと感じてしまうが、無機物であっても、いずれ変化していきます。その変化があまりに遅いため、生きていると感じるほどの変化が無いだけなのです。
万物が変化していて、変化の速いものが生き物と考えている我々にとって、変化の速いものが価値あるものと捉えています。
そう捉えると「死」とは、変化の速い生物の変化速度を維持するためのシステムであり、変化を求める人間にとって、尊さを持たせてくれるシステムでもあります。
そろそろ話をまとめていきたいと思います。
結局のところ「死」とは、変化を飛躍的に高めるためにあるシステムです。
人間には大きな矛盾があり、永遠という「変化しない」ことへの憧れと、現実では「変化の速さ」を追い求めて経済活動に打ち込んでいます。
でも、万物の法則においては変化する道しか用意されていないのです。
変化する道しか用意されていないのであれば、「変化しない」という憧れなど捨てて、いつまでも変化を楽しめるようになるべきではと思います。
私たち人間にとって、人生とはとても限られた時間しかありません。
私たち「生き物」は早い変化を求めてできた存在なのだから、「死」を恐れるのではなく、変化を楽しむことに専念すれば良い。
人生の価値とは、次の世代にどのような変化をもたらせれたかということだと思います。