同類探し 「強い不安を乗り越えたマイノリティーたち」
思春期あたりから、不安が強くて生きていくことが辛かったと感じた方はいませんか?
生きていくことが、なんでこんなに不安を抱くのだろう?
この不安が一生続くとしたら辛すぎる。
かつてそんなことを感じた方いませんか?
今も強い不安を抱いている方は多いかと思います。
私の不安の根源はおそらく4歳から父子家庭で育ったことが、愛着の不完全形成によって起きたのだと考えています。
今にして思えば、これは不幸でもなんでもありません。むしろ人生を豊かにする原動力となっていることにも気づけたので、良いことだったのかもと思えるようになってきました。
かつての私を知らない方は、私の人生をうらやましく思う方も多少はいます。
でも、それは今の私しか知らないからそう思えるのです。
かつての私はとても不安が強く、常に緊張した状態で生きていました。
この不安の原因と対処方法を見つけるまでに、どれだけの時間を費やしたかを振り返れば、決して楽な人生だとは言えません。
むしろ、メンタルサバイバーとしての人生のほうが、長く辛いものでした。
現在の私を簡単に紹介すると、NPO法人と合同会社で障害者福祉の経営をしています。
7年前から経営しており、現在は現場に立たなくても稼働していく状態にあり、ここ数か月前から週の半分くらいは仕事をしなくてもよい状態にあります。
普通の暮らしであれば、あと2~3年今の状態をキープできれば、働かずに生活できるくらいの余力を蓄えてきています。
こんな私ですが、わずか3年前までは、金銭的な不安に取りつかれており、事業はうまくいっているのに、年に数回強い不安に襲われていました。
今も気を抜けばこの不安に襲われることもあるのでしょうけど、不安を取り除く方法を見つけ、常に実行し続けているので、不安がでることはありません。
今、心の落ち着きを手に入れることができて、私と同じような境遇の方を探してみたいと思い、ブログにすることにしました。また、自分の振り返りとしても、40歳を前にした自分の心を残すということも心掛けております。
今回のブログでは以下のような構成となっております。
1章 不安はどこからやってくるのか 発生原因
2章 不安を取り除くために必要なこと 実行力
3章 我々は中流階級以上のマイノリティー 一般の人たちとの違い
4章 人間が存在する意味
5章 我々の人間としての役割とは
6章 まとめ
1章 不安はどこからやってくるのか 発生原因
私が障害福祉の仕事を始めたころに、知ったことが2つあります。
森田療法では、不安とはセンサーのようなものだと言っています。
今にして思えば、不安に限らず感情はすべてセンサーなんですが、これを理解していかなければ、次に進めません。
不安を含む感情は、五感という身体のセンサーを通じて、本能脳が反応した状態です。
よく不安や怒りを取り除くなどというような表現がありますが、感情を取り除く、コントロールすることは不可能です。
なぜなら感情は本能にのっとり発生しており、人間である以前に、生物として生きていくために必要な生体反応なので、それをコントロールすることはできません。
ただし、不安や怒りが出ているときに、別ごとに集中することで、その感情の感じ方を和らげることはできます。脳は二つのことを同時にやろうとすると、両方共の感覚が分散された分意識が弱くなるからです。また、身体と本能脳は、脊椎を通してつながっているので、例えば鉛筆を口でくわえて口角を上げた状態をキープすると、楽しい気分になりやすいなど、というようなことは起きます。
これらのテクニックを使えば、感情を誘導することはできます。
しかし、現実的に起きている問題があるのであれば、上記のような方法で感情を弱めたところで、問題に対処していなければ、大きな不安となって後々帰ってきます。
不安とは、人生における問題や課題を抱えた状態を、意識させるための役割があるからです。そういった意味では、向精神薬などもごまかしでしかないので、問題への適切な対処が成されなければ、向精神薬が切れた段階で不安がぶり返してきます。
では、この不安の量は人によって同じなのかということが疑問に思うところです。
愛着障害などがある方たちは、強い不安を抱きやすいということもあり、人によって不安の強さが違うということがはっきりと言えます。
そうなると、不安が強い人たちは、すなわち不幸だと考えてしまいますが、それも一概に言えないのです。
なぜなら、不安は欲の一つです。
何か自身として望ましい状態があるため、そこに到達するために不安がでているのであるため、その不安を取り除いていくと、必ず人としての成長があり、幸福度が上がっていくからです。
そして、そういった幸福度を高める努力をする行動が、一般の人たちからすると、我々をストイックな人間だと思わせるのです。
では、なぜ我々のような一見無駄なほど強い不安が出る人間が存在してしまうのかというところを考えてみたいと思います。
人間は、個々数十年で、急激に文化・経済・科学の発展があり、死のリスクが急激に低くなってきました。
例えば50年ほど前までさかのぼって考えてみてください。
昭和中期では、まだ子供たちが病気で亡くなってしまうリスクが、今よりも何10倍もありました。戦時中や戦前にさかのぼって考えてみてください。
生まれてきた子供たちの半分は成人になる前に死んでしまいます。
わずか数世代前にさかのぼるだけで、人間は、いとも簡単に死んでいたのです。
しかし現代では、人間が成人になるまでに死ぬということは非常に稀なことになってきました。
環境が急激によくなってしまったのに対して、脳の変化が追い付いてきていないため、不安が出ていると思われます。
では、これは我々の脳だけがそうなのかというとそうでもありません。
基本的に人間は、不幸な情報を好んでしまう傾向が強いことがニュースを見ているとよくわかります。
例えば、飛行機事故のニュースが良い例です。
飛行機事故は、一度起こると数百人が死傷する大惨事になります。
しかし、事故の死傷率を見れば、自動車事故に比べはるかに低いものです。
なのに事故が起きれば、報道で大々的に取り上げられます。
当然事故が起きれば取り上げるのに、事故の発生率が年々下がっていることなどは報道されることはほとんどありません。
なぜなら皆さんが関心がないことだからです。
テロによる被害も同じです。
世界的に起きているテロ事件で命を落とす人は、食中毒で亡くなる人の数よりも少ないです。ましてや先進国の人間が巻き込まれることは全体としては少数です。
世界的に見て人間は、益々安全に生きていけるようになっているのに、皆さんはその事実を知らず、不安な感情を掻き立てる報道に関心を抱いていませんか?
こういったことからもわかるように、我々に限らず、ほとんどの人間は不安という感情を適度に受け入れながら生きたいのです。
もう少し厳密にいうと、脳は常に欲を出していますが、この欲の一部が不安となり、常にこの感情に対して合理的な理由を探しているのです。
つまり、本来であれば、外的要因(環境が不安を生む要因となっている)によって不安になるのがすじなのですが、実際には人間の脳が本能として持っているセンサーが誤作動してしまうくらいに安全に生きていけるようになってしまったため、内的要因(脳の中で起きている生理的現象)によって不安が発生し、その不安という感情を合理的にするために、適当な理由を報道などから探し出しているのです。
つまり、我々が感じている不安の大半は内的要因によって発生しているもので、根拠がない不安なのです。
このことに気付くだけで、不安に対する向き合い方がまるで変ってきます。
我々は、自己覚知能力を高め、不安の原因を正確に理解することで、もっと合理的にエネルギッシュに活動することができるのです。