同類探し 「強い不安を乗り越えたマイノリティーたち」 2章 不安を取り除くために必要なこと 実行力

2章 不安を取り除くために必要なこと 実行力

1章でも軽く触れましたが、不安とはセンサーであり、何か人生における問題や課題が発生した時にその問題や課題をのり超えさせるための欲の一つです。

例えば受験を控えているときの心理状態を思い浮かべてください。

受験は多くの方にとって大きな課題です。

そして、その課題が大きければ大きいほどプレッシャーとく形で強い不安となり、その強い不安があるからこそ、努力を惜しまないのです。

こうやって我々は努力を惜しむことなく全力で行動していくわけですが、時には失敗ということもあります。

しかし、この失敗という定義の仕方を正しくしているでしょうか?

ここでいう失敗とは、「受験の失敗」つまり、希望校に入学することができなかったということです。これは、人生において大きな失敗の一つとなります。

しかし、考え方を変えれば、人生の一部分を失敗したにすぎません。

人間は機械ではありませんので、頻繁にミスをします。

だからこそ人間であり、だからこそそういったことを共感して、豊かな人生の原動力としていけると私は考えています。

希望校に入学できなかったからと言って自分の人生が全て失敗したわけではありません。特に高校入学のための受験であれば、大学や専門学校などで、希望を果たせればよいのです。

ましてや、学校など人生の通過点でしかありません。

人生においてしたい仕事やそれ以外のことがあるのであれば、あきらめなければチャンスは何度か作れるものです。

金銭的な理由であきらめているのであれば、それはやはりその人の努力や考え方が甘いと思ってしまいます。

どのような方法でもやる覚悟があれば、可能性はあるのです。

その可能性を手繰り寄せることができるかは、その人の行動力次第です。

他人からもその人が本気でそのことに取り組んでいるということが見て取れれば、親でなくても協力者は現れるものだと思います。

少なくともこの日本という国では、金銭的にも心理的にも支えてくれる方はいずれ現れるはずです。そうでなければ、我々のような存在は出てこないと思います。

少なくとも私は自分のビジネスになりそうな人物が最大限の努力をしているのであれば手助けしたいと思います。

ビジネスとは双方にとってウィン・ウィンになることだと考えているので、ゆくゆくその人物が自己実現をした時には、私にも投資した見返りが返ってくるはずです。

人は、本気で何かをやりたいと思っているなら、必ずそれが他人に伝わるように行動していくものです。なぜなら、物事は他人との関係の中にあるのであって、個人の中でとどまることなど何一つないからです。

そのことに気付くことができれば、当然多くの方に相談するだろうし、そういった自分の思いを他人に話す機会も増えます。

そういった自分自身の発言を通して、責任を負う覚悟を持ち、より自覚のある行動がとれるようになっていくのです。

よく、一般の人や精神障害者の方が言うことに、「〇〇したいんだけど」という思いだけを口にする人です。

そんな人と会話をすると、ついつい「じゃあ、今それについてどんなアクションをとっているの?」と質問をすると、本気度が伝わらない答えしか返ってきません。

私は、この質問で我々と一般の人とを区別しています。

もっともいまのところ、我々と出会うことが極端に少ないため、こういった文章で存在をアピールせざるを得なくなったのですが。

精神障害者を見ていると勘違いしてしまうのですが、不安という感情が強いと、不安によって行動がとれなくなるというのが、精神疾患としての病状だととらえられています。

でも、これって不自然な考え方なのです。

なぜなら、不安は本能から来る本能脳の反応なのです。これに対して、行動するための正しいプランができなくて行動不全になるのが精神疾患なのです。

もっとも精神疾患でなくても一般の低所得の人たちの中には、こういった精神疾患に近い行動不全の人たちはいますが。

不安が起きているのに問題を誤認してこうどうする認知能力の低さが精神疾患の本性だと私は考えています。

医療では認知能力には目を向けず過剰な感情に目を向けて、その過剰な感情を向精神薬で軽減しようとしますが、今まで説明してきた内容を読んでいただければ、これが治療ではないことは一目瞭然化と思います。

なぜなら、過剰な感情が悪いというのであれば、我々は社会的に病衣気なのでしょうか?他人と積極的にかかわり、倫理的にも優れた人格を形成しようと考える我々が病気であるのなら、健常の定義を聞きたい。

そう、我々は完全に健常なのです。むしろ、一般の人をけん引するリーダー的存在になっていくべき存在だとすら思っています。

なぜなら、我々と同類に、ブッダがいるからです。

仏教の信仰の中心であるブッダが我々のような、過剰な不安からあのような真理に行き着いたということは、複数の宗教家の方からも聞いております。

世界的には仏教は悲観主義などと言われていますが、全くの勘違いだと私は思っております。

なぜなら、マズローの欲求5段階説にも表現されている通り、人間は、生理的欲求と不安を取り除いた状態でなければ自己実現に到達することができないのです。

つまり不安を抱えた状態では人生を楽しむことができないという性質が人間にはあるのです。

ブッダは特殊なほど不安が強かったため、そういった不安を取り除くことに人生のすべてをささげたような人物です。そのため、不安という悲観的な感情が中心の人生論に見えてしまいますが、決してそんなことはないと確信していることがあります。

キリスト教にしてもそうですが、仏教でも同じ教えがあります。

「いただくよりも、あたえなさい」というニュアンスの教えです。

これは、仏教においては間違ったニュアンスで教えられてきていると私は確信していますが、まず、間違った教えについてですが、1万円所持している人物が、1000円寄付することよりも、100円しか所持していない人物が100円寄付するほうが尊い

という教えです。

ブッダはこんなバカげた教えはしていないと私は思います。

なぜなら、貧しければ貧しいほど世の中の先行きが悲観的に見えるのは当たり前のこと、その人物が100円を寄付することは、自殺する気があるということと等しいと思います。この先生きていくつもりがないから、代わりに他の方が生きてください。という意思にしか思えません。

例えば、船で遭難したところを想像してください。

いつ助けに来るかわからない状況で、500ミリのペットボトルの水をあなたが持っているとします。

何日もそうなんして、ついに船が管理する飲食物が底をつきました。

あなたはこの500ミリリットルのペットボトルをどのように使いますか?

先ほどの仏教の教えに当てはめればすべてを与えなさいということになります。

そんなことができますか?

できるはずがありません。

ブッダだって、我々のように不安が強い人間だったので、当然生への執着が強く、その執着から逃れるためにはどうしたらよいかということを模索していたわけです。

そんな人物が全てを与えなさいなどといったとは思えません。

本質的な教えは、こうだと思います。

「困っている人がいるなら手を差し伸べるべきです。

そのためには、あなた自身が心も経済的にも豊かである必要があります。

経済的に豊かになることは、心を汚すことではありません。むしろ経済的豊かさが無ければできないことも多くあります。お金を稼ぐことが悪いのではありません。その稼いだお金を個人で蓄えてしまうことがダメなのです。お金は何のためにあるのですか。

お金は流れることで、経済は豊かになっていくのです。無駄にとどめることはよろしくおないのです。余っているなら必要なところに流して差し上げなさい。そうすれば、あなたの周辺はもっと豊かになることでしょう。」

このような教えになったのかと私は思います。

もともと人間に限らず生き物は利己的です。自分が生き残ることができるのであれ、それを優先します。そうやって自分を守ってこなければ、種を残すことができないのです。

自分の命が多くの人を救うという状況であれば、命を投げうることも考えられます。

しかし、それが確定していて初めてできる行為だと思います。不確実な中では、必ず利己的な思いが優先します。生き物とはそういうものです。

大事なのは、自分に余裕があるなら他人にも積極的に助けてあげることです。

そもそもみんなが豊かになれば、テロもほとんど起きることはありません。

みんなが豊かになれば、安全に安心して生きていくことができるのです。

それなのに我々は不安に駆られてしまうのです。

そんな不安を取り除くためには、自己実現をし続けるしかありません。

生活の充実を図ることで、そもそもネガティブな感情に陥らないようにします。

それでも時々不安になるときには、1章でも少しふれたように、その不安の原因が内的要因であれば、「気のせいだ」と割り切って現実が以前よりも良くなっているということに目を向けるだけです。

我々は、不安と同時に空虚感も時々出ます。

この空虚感を埋めるために、マイノリティーな我々が集まればもっと楽しく、安心して生きていくことができるのだと、考えております。

我々は自分の人生に不安が出ないよう、全力で行動をします。

めんどくさいと思うことがほとんどありません。

人生に起きるすべてのことは自己責任だととらえ、自分にできることに目を向けます。

そんなストイックさが、不安を忘れさせてくれます。

でも、ときどきこんなストイックさから、孤独を感じることもあります。

でも、世界のどこかで似たような奴らはたくさんいるのです。

だから今日も楽しむために全力で活動しましょう。