4章 人間が存在する意味

人間は他の動物や植物、それ以外の無機質なものとどのように違うのかと考えることがあります。

人間から見て無機質なものは完全に物と決めつけてしまっている。しかし人間の体内にも無機質なものは存在し、それらがあることで我々は人間として生きていけるのです。

そう考えると、我々が見ている無機質な物も実はもっと大きな枠でとらえると大きな生命のようなものがあり、その中で循環しているのではないかとも思えてきます。

 

植物はどうか?

植物には脳が無いので、直接的な意を感じることはできません。そもそも動きも成長以外ではありません。

しかし、全くもって意思が無い(目的が無い)とは考えられません。

植物は植物で個々の種の繁栄を求めて競争して生きています。これらが意思(目的)でないとするなら何なのか、私にはわかりません。

 

ではほかの動物、特に哺乳類、霊長類ではどうなのかと考えていくと、意識を直接感じ取ることができる場面が多々あります。そして、彼らが生きていくためにとっている本能的行動の数々は、人間においても共通なことばかりです。

呼吸をする 食物摂取をする 排泄をする 恒常性 睡眠 まばたき 母性 父性 怒り 不安 痛み かゆみ 喜び 悲しみ ・・・・

共通点を探し出したらきりが無いくらいです。

しかし、人間は他の動物とは違うといわれる最も大きな理由は言語だといわれています。

確かに言語があることで効率の良いコミュニケーションができ、数字があることで数量などを具体的に把握することができる世になりました。また文字ができることで、記録をすることができ、情報を共有しやすくもなりました。それと同時に空想世界が飛躍的に広がりました。

人間にしかできないことはいくつかあります。そしてそれらはとんでもなく大きなことを成し得ています。

では、それをもって人間が他の動物よりもはるかに優れているかというと、そこは疑問に思います。

確かに人間は他の動物と比べると優れています。しかし、それはごく一部の人間であることも事実です。

大半の人間は、何のために生きるのかとか人間の役割は何なのかとか宇宙(あるいは地球)が存在する意味などを深く考えることは無いと思います。

ということは、ほとんどの人間は惰性で生きていて、主体性が無いのです。

そんな人間が、偉そうに他の生き物よりもはるかに優れていると言っているのは、あまりにも無知な発想だと思います。

自分自身の行動は何によって制限されているのか、どうして生きているうえでそこそこの充実を味わうことができているのかなど考えたこともないと思います。

人間の生き物としての限界や、新たな可能性を模索できて初めて優れた生き物だと私は思います。

なんとなく会社勤めをしてなんとなく生きている人間が、尊い存在かと言われれば、自信をもって尊いとは言えません。そんな惰性な生き方をしているのであれば、他の動物たちと区別できるほどの優れた生き物だとは思いません。

動物愛護家の方はある意味で素晴らしいと思います。動物に敬意を抱くということは、自分自身の限界に気付いているということでもあると思います。そして、他の生き物に敬意を抱くことができるということが、これからの人間の役割なのではないかとも感じます。

人間は他の生物に比べ、はるかに安全に生きていくことができるようになりました。

そういった環境を自分たちで作り上げることで、他者(他の生き物)へも配慮するこができる存在へと変化することができたのです。他の生き物たちでも、他種を助けることはまれにあります。なので、このこと自体が特別な行動だとは思いませんが、人間という種全体で他種を助けるということができるのは、やはり人間だけだと思います。

そう考えると、人間の役割の一つは、生態系の維持にあると言えます。

当然現在の環境が人間にとっても適しているだろうと考えるからの行動ではありますが、それでも他の種を含めて生き残っていこうという大いなる意思に変わりはありません。

もう一つ、人間に役割があるとすれば、これはこれから何百年、何千年と先の話になっていくのでしょうが、生態系の拡大(繁栄)だと思います。

人間は、大航海時代のように、フロンティア精神にあふれており、積極的に自分たちが繁栄できる領域を広げてきました。

今後は、宇宙にその行動が広がっていくことは間違いありません。

そこに、前記の生態系の維持もかかわってくると、旧約聖書にあるようなノアの箱舟の実現となってしまいそうですね。

こういった人間の可能性を考えると、確かに人間は他の動物とは違い、とんでもない可能性を秘めているということは感じます。

その一方で、あまり物事を考えない人たちの発言を聞くと、それほど変わりはないという事実も感じます。

人間の脳のすごいところは、他の動物と違って、強く望むことは、他の人間を巻き込んで実現するということです。

だからこそ空想が現実に近づいていくのです。

この章では矛盾する人間について語りましたが、一番皆さんに考えていただきたいことは、ただ単に生きているだけであれば、たとえそれが人間だとしても、他の動物とさほど変わらないということです。人間は、使命感を感じることができます。だからこそ、人間は他の動物とは違って特別だと考えるのであれば、その特別な生き物である人間に生まれた自分は、この人生においてなにを成し遂げるべきなのかを問いていただきたい。これが人間が人間である最大の意味だと私は思います。

同類探し 「強い不安を乗り越えたマイノリティーたち」3章 我々は中流階級以上のマイノリティー 一般の人たちとの違い

3章 我々は中流階級以上のマイノリティー 一般の人たちとの違い

 

こんなストイックな生き方をする我々は、同類となかなか巡り合えません。

やはり相当なマイノリティーなのでしょうか。

私の人生の中で同類だと感じる人物は3人しか知りません。

そして、二人は明らかに中流どころか高所得層(年収3000万円以上)の方です。

私ともう一人は、年収1000万円前後です。

我々は、行動力があり、面倒だと感じることが少ないので、仕事が早いうえに仕事の細部に対して目的意識を持って行動します。

顧客は誰なのか。 顧客は何を求めているのか。 将来的にはどのように需要が変化していくのかなどを考えながら行動します。

なので結果的に雇われていたとしても、多くの仕事を任されることが多くなります。

また、不安が強く出るがために、仕事に手を抜くことをしないので、結果的に仕で成功する機会が増えていきます。

一方一般の方はどうかといえば、平均以下の給与の方を見ていると多いのが、圧倒的にめんどくさがり屋で、目先のことしか考えていない。そしてなにより、欲があまり無いため、何が何でもこうなりたいという強い意志がありません。

人間というのは不思議なもので、本人が強く求めるものは、ほとんど手にすることができます。強く求めるということは、現実的にそれを手に入れることが可能な状態にある場合をいいます。

現実的に不可能なことを求めているとしたら、それは欲ではなくて、妄想です。

欲として本能に出るのは、それが現実的に努力をすれば手に入ると感覚的に理解しているから求めることができるのです。

ですので、その求めているものが欲からくるものなのか妄想なのかをしっかりと理していることが必要です。

この欲の出し方にはコツがあるので、まだ大きな欲を満たしたことが無い方にはなかなか理解ができな以下と思いますが、常に強く思えて、かつ現実的に実現可能なことでなければなりません。

例えば、「年収〇〇万円以上になりたい」という欲があったとします。

この場合すごくアバウトな目標なので、このままでは行動に移すのがむずかしいですね。

しかし、よくよく考えてみると、この目標が高ければ高いほど、その年収を稼げる方法というのは限られてきて、かえって目標設定が明確になりやすいのです。

1000万円以上なら、一般的な仕事ではほとんど実現不可能です。

であれば限られた仕事をリサーチして、自分に最も向いてそうなことを探し出せいいのです。

目標が高ければ高いほど方法が限られるため、実行して成功する機会は減っていくことになりますが、やることは限られているので、「目標が高い」=「実現性が低い」という法則にはならないと私は考えています。

行動が狭められれば狭められるほど、迷いもなくなり、一心不乱に取り組むことができるので、その分機会が少なくても、その少ない機会に飛びつくことができる体制がいつでもできるからです。

つまり、欲が強ければ強いほど、不安が強ければ強いほど、成功するためにとるべき行動に集中することができ、目標達成までの期間が短くなっていくのです。

また、我々は、主体的に物事を考えて行動をしますが、多くの方は、主体的に行動することは、我々に比べて少ないものです。

これは、組織において、2割の優秀な人材が組織をけん引するという数字の理論とリンします。

人間は、実はありやはちと同じように、「働き者」と「嬢王」の二つの性質があるのだと考えています。

「働き者」は能動的で従属的なので組織の中でないとなかなか生きていけません。誰かに指示してもらわないと、自分自身の生き方や働き方すらも見つけようとしません。

でも「嬢王」は違います。

主体的に物事を考え、「働き者」を使うことで、より大きなことを成し得るのです。

勘違いしないでほしいのが、我々のすべてが「嬢王」であるわけではなく、我々の多くが「嬢王」であるということです。

なので、一部の我々は、「働き者」も当然います。

しかし、そんな「働き者」であっても、やはり一般の人とは違い、不安や欲が強い分だけ、エネルギッシュに活動することができます。

その結果ワーカーホリックにもなりやすいのですが、仕事では成果を残しやすいです。

また、普段から不安という感情との向き合いが一般の人よりも多いため、自己覚知能力が高まり、結果として知的探求心が高まり、思考の広がりが出てきます。

苦悩が多い分多くの気付きを与えてくれる我々の不安は、人生の影を大きく作る分光も強くなるのです。

そして、我々は、気分の浮き沈みが大きいことも特徴です。

我々の多くの方は、そんな浮き沈みが大きい自分の気分に嫌気がさすこともあるかと思います。

しかし、それは、ポジティブな感情がネガティブになったときだけだと気付くことで、楽になっていきます。

なぜなら、人間は、上がるときも下がるときもその気分の落差が大きいほど、喜びや悲しみが増えるのです。

ネガティブな思いは気のせいだと思い、ポジティブな思いだけを受け止めるようにしていけば、一般の人たちよりも実行力に勝り我々は、より多くのポジティブな状況を体験することになります。

そんな一般の人たちよりもポジティブな体験が多い我々の人生において、ネガティブな体験は、人生のスパイスだと思えばいいのです。

楽しいことだけでは楽しさにもマンネリしてきます。

おいしい肉も食べ続ければ飽きてきます。

そこにガーリックが入ればまた一味違います。

人生も同じで、そこにネガティブな味付けが成されることで、ポジティブがより良いことに感じさせてくれるのです。

ガーリックが良い例だったかはさておき、人生において、一人で酒を飲みたいときもあるということです。

そういったこともなければ人生はつまらないのです。

 

同類探し 「強い不安を乗り越えたマイノリティーたち」 2章 不安を取り除くために必要なこと 実行力

2章 不安を取り除くために必要なこと 実行力

1章でも軽く触れましたが、不安とはセンサーであり、何か人生における問題や課題が発生した時にその問題や課題をのり超えさせるための欲の一つです。

例えば受験を控えているときの心理状態を思い浮かべてください。

受験は多くの方にとって大きな課題です。

そして、その課題が大きければ大きいほどプレッシャーとく形で強い不安となり、その強い不安があるからこそ、努力を惜しまないのです。

こうやって我々は努力を惜しむことなく全力で行動していくわけですが、時には失敗ということもあります。

しかし、この失敗という定義の仕方を正しくしているでしょうか?

ここでいう失敗とは、「受験の失敗」つまり、希望校に入学することができなかったということです。これは、人生において大きな失敗の一つとなります。

しかし、考え方を変えれば、人生の一部分を失敗したにすぎません。

人間は機械ではありませんので、頻繁にミスをします。

だからこそ人間であり、だからこそそういったことを共感して、豊かな人生の原動力としていけると私は考えています。

希望校に入学できなかったからと言って自分の人生が全て失敗したわけではありません。特に高校入学のための受験であれば、大学や専門学校などで、希望を果たせればよいのです。

ましてや、学校など人生の通過点でしかありません。

人生においてしたい仕事やそれ以外のことがあるのであれば、あきらめなければチャンスは何度か作れるものです。

金銭的な理由であきらめているのであれば、それはやはりその人の努力や考え方が甘いと思ってしまいます。

どのような方法でもやる覚悟があれば、可能性はあるのです。

その可能性を手繰り寄せることができるかは、その人の行動力次第です。

他人からもその人が本気でそのことに取り組んでいるということが見て取れれば、親でなくても協力者は現れるものだと思います。

少なくともこの日本という国では、金銭的にも心理的にも支えてくれる方はいずれ現れるはずです。そうでなければ、我々のような存在は出てこないと思います。

少なくとも私は自分のビジネスになりそうな人物が最大限の努力をしているのであれば手助けしたいと思います。

ビジネスとは双方にとってウィン・ウィンになることだと考えているので、ゆくゆくその人物が自己実現をした時には、私にも投資した見返りが返ってくるはずです。

人は、本気で何かをやりたいと思っているなら、必ずそれが他人に伝わるように行動していくものです。なぜなら、物事は他人との関係の中にあるのであって、個人の中でとどまることなど何一つないからです。

そのことに気付くことができれば、当然多くの方に相談するだろうし、そういった自分の思いを他人に話す機会も増えます。

そういった自分自身の発言を通して、責任を負う覚悟を持ち、より自覚のある行動がとれるようになっていくのです。

よく、一般の人や精神障害者の方が言うことに、「〇〇したいんだけど」という思いだけを口にする人です。

そんな人と会話をすると、ついつい「じゃあ、今それについてどんなアクションをとっているの?」と質問をすると、本気度が伝わらない答えしか返ってきません。

私は、この質問で我々と一般の人とを区別しています。

もっともいまのところ、我々と出会うことが極端に少ないため、こういった文章で存在をアピールせざるを得なくなったのですが。

精神障害者を見ていると勘違いしてしまうのですが、不安という感情が強いと、不安によって行動がとれなくなるというのが、精神疾患としての病状だととらえられています。

でも、これって不自然な考え方なのです。

なぜなら、不安は本能から来る本能脳の反応なのです。これに対して、行動するための正しいプランができなくて行動不全になるのが精神疾患なのです。

もっとも精神疾患でなくても一般の低所得の人たちの中には、こういった精神疾患に近い行動不全の人たちはいますが。

不安が起きているのに問題を誤認してこうどうする認知能力の低さが精神疾患の本性だと私は考えています。

医療では認知能力には目を向けず過剰な感情に目を向けて、その過剰な感情を向精神薬で軽減しようとしますが、今まで説明してきた内容を読んでいただければ、これが治療ではないことは一目瞭然化と思います。

なぜなら、過剰な感情が悪いというのであれば、我々は社会的に病衣気なのでしょうか?他人と積極的にかかわり、倫理的にも優れた人格を形成しようと考える我々が病気であるのなら、健常の定義を聞きたい。

そう、我々は完全に健常なのです。むしろ、一般の人をけん引するリーダー的存在になっていくべき存在だとすら思っています。

なぜなら、我々と同類に、ブッダがいるからです。

仏教の信仰の中心であるブッダが我々のような、過剰な不安からあのような真理に行き着いたということは、複数の宗教家の方からも聞いております。

世界的には仏教は悲観主義などと言われていますが、全くの勘違いだと私は思っております。

なぜなら、マズローの欲求5段階説にも表現されている通り、人間は、生理的欲求と不安を取り除いた状態でなければ自己実現に到達することができないのです。

つまり不安を抱えた状態では人生を楽しむことができないという性質が人間にはあるのです。

ブッダは特殊なほど不安が強かったため、そういった不安を取り除くことに人生のすべてをささげたような人物です。そのため、不安という悲観的な感情が中心の人生論に見えてしまいますが、決してそんなことはないと確信していることがあります。

キリスト教にしてもそうですが、仏教でも同じ教えがあります。

「いただくよりも、あたえなさい」というニュアンスの教えです。

これは、仏教においては間違ったニュアンスで教えられてきていると私は確信していますが、まず、間違った教えについてですが、1万円所持している人物が、1000円寄付することよりも、100円しか所持していない人物が100円寄付するほうが尊い

という教えです。

ブッダはこんなバカげた教えはしていないと私は思います。

なぜなら、貧しければ貧しいほど世の中の先行きが悲観的に見えるのは当たり前のこと、その人物が100円を寄付することは、自殺する気があるということと等しいと思います。この先生きていくつもりがないから、代わりに他の方が生きてください。という意思にしか思えません。

例えば、船で遭難したところを想像してください。

いつ助けに来るかわからない状況で、500ミリのペットボトルの水をあなたが持っているとします。

何日もそうなんして、ついに船が管理する飲食物が底をつきました。

あなたはこの500ミリリットルのペットボトルをどのように使いますか?

先ほどの仏教の教えに当てはめればすべてを与えなさいということになります。

そんなことができますか?

できるはずがありません。

ブッダだって、我々のように不安が強い人間だったので、当然生への執着が強く、その執着から逃れるためにはどうしたらよいかということを模索していたわけです。

そんな人物が全てを与えなさいなどといったとは思えません。

本質的な教えは、こうだと思います。

「困っている人がいるなら手を差し伸べるべきです。

そのためには、あなた自身が心も経済的にも豊かである必要があります。

経済的に豊かになることは、心を汚すことではありません。むしろ経済的豊かさが無ければできないことも多くあります。お金を稼ぐことが悪いのではありません。その稼いだお金を個人で蓄えてしまうことがダメなのです。お金は何のためにあるのですか。

お金は流れることで、経済は豊かになっていくのです。無駄にとどめることはよろしくおないのです。余っているなら必要なところに流して差し上げなさい。そうすれば、あなたの周辺はもっと豊かになることでしょう。」

このような教えになったのかと私は思います。

もともと人間に限らず生き物は利己的です。自分が生き残ることができるのであれ、それを優先します。そうやって自分を守ってこなければ、種を残すことができないのです。

自分の命が多くの人を救うという状況であれば、命を投げうることも考えられます。

しかし、それが確定していて初めてできる行為だと思います。不確実な中では、必ず利己的な思いが優先します。生き物とはそういうものです。

大事なのは、自分に余裕があるなら他人にも積極的に助けてあげることです。

そもそもみんなが豊かになれば、テロもほとんど起きることはありません。

みんなが豊かになれば、安全に安心して生きていくことができるのです。

それなのに我々は不安に駆られてしまうのです。

そんな不安を取り除くためには、自己実現をし続けるしかありません。

生活の充実を図ることで、そもそもネガティブな感情に陥らないようにします。

それでも時々不安になるときには、1章でも少しふれたように、その不安の原因が内的要因であれば、「気のせいだ」と割り切って現実が以前よりも良くなっているということに目を向けるだけです。

我々は、不安と同時に空虚感も時々出ます。

この空虚感を埋めるために、マイノリティーな我々が集まればもっと楽しく、安心して生きていくことができるのだと、考えております。

我々は自分の人生に不安が出ないよう、全力で行動をします。

めんどくさいと思うことがほとんどありません。

人生に起きるすべてのことは自己責任だととらえ、自分にできることに目を向けます。

そんなストイックさが、不安を忘れさせてくれます。

でも、ときどきこんなストイックさから、孤独を感じることもあります。

でも、世界のどこかで似たような奴らはたくさんいるのです。

だから今日も楽しむために全力で活動しましょう。

 

 

 

 

 

 

同類探し 「強い不安を乗り越えたマイノリティーたち」 

思春期あたりから、不安が強くて生きていくことが辛かったと感じた方はいませんか?

 

生きていくことが、なんでこんなに不安を抱くのだろう?

この不安が一生続くとしたら辛すぎる。

 

かつてそんなことを感じた方いませんか?

 

今も強い不安を抱いている方は多いかと思います。

 

私の不安の根源はおそらく4歳から父子家庭で育ったことが、愛着の不完全形成によって起きたのだと考えています。

 

今にして思えば、これは不幸でもなんでもありません。むしろ人生を豊かにする原動力となっていることにも気づけたので、良いことだったのかもと思えるようになってきました。

 

かつての私を知らない方は、私の人生をうらやましく思う方も多少はいます。

でも、それは今の私しか知らないからそう思えるのです。

かつての私はとても不安が強く、常に緊張した状態で生きていました。

この不安の原因と対処方法を見つけるまでに、どれだけの時間を費やしたかを振り返れば、決して楽な人生だとは言えません。

むしろ、メンタルサバイバーとしての人生のほうが、長く辛いものでした。

 

現在の私を簡単に紹介すると、NPO法人合同会社で障害者福祉の経営をしています。

7年前から経営しており、現在は現場に立たなくても稼働していく状態にあり、ここ数か月前から週の半分くらいは仕事をしなくてもよい状態にあります。

普通の暮らしであれば、あと2~3年今の状態をキープできれば、働かずに生活できるくらいの余力を蓄えてきています。

 

こんな私ですが、わずか3年前までは、金銭的な不安に取りつかれており、事業はうまくいっているのに、年に数回強い不安に襲われていました。

今も気を抜けばこの不安に襲われることもあるのでしょうけど、不安を取り除く方法を見つけ、常に実行し続けているので、不安がでることはありません。

 

今、心の落ち着きを手に入れることができて、私と同じような境遇の方を探してみたいと思い、ブログにすることにしました。また、自分の振り返りとしても、40歳を前にした自分の心を残すということも心掛けております。

 

今回のブログでは以下のような構成となっております。

 

 

1章 不安はどこからやってくるのか 発生原因

2章 不安を取り除くために必要なこと 実行力

3章 我々は中流階級以上のマイノリティー 一般の人たちとの違い

4章 人間が存在する意味 

5章 我々の人間としての役割とは

6章 まとめ

 

 

 

1章 不安はどこからやってくるのか 発生原因

私が障害福祉の仕事を始めたころに、知ったことが2つあります。

アルコホリクスアノニマス森田療法です。

森田療法では、不安とはセンサーのようなものだと言っています。

今にして思えば、不安に限らず感情はすべてセンサーなんですが、これを理解していかなければ、次に進めません。

不安を含む感情は、五感という身体のセンサーを通じて、本能脳が反応した状態です。

 よく不安や怒りを取り除くなどというような表現がありますが、感情を取り除く、コントロールすることは不可能です。

なぜなら感情は本能にのっとり発生しており、人間である以前に、生物として生きていくために必要な生体反応なので、それをコントロールすることはできません。

ただし、不安や怒りが出ているときに、別ごとに集中することで、その感情の感じ方を和らげることはできます。脳は二つのことを同時にやろうとすると、両方共の感覚が分散された分意識が弱くなるからです。また、身体と本能脳は、脊椎を通してつながっているので、例えば鉛筆を口でくわえて口角を上げた状態をキープすると、楽しい気分になりやすいなど、というようなことは起きます。

これらのテクニックを使えば、感情を誘導することはできます。

しかし、現実的に起きている問題があるのであれば、上記のような方法で感情を弱めたところで、問題に対処していなければ、大きな不安となって後々帰ってきます。

不安とは、人生における問題や課題を抱えた状態を、意識させるための役割があるからです。そういった意味では、向精神薬などもごまかしでしかないので、問題への適切な対処が成されなければ、向精神薬が切れた段階で不安がぶり返してきます。

では、この不安の量は人によって同じなのかということが疑問に思うところです。

愛着障害などがある方たちは、強い不安を抱きやすいということもあり、人によって不安の強さが違うということがはっきりと言えます。

そうなると、不安が強い人たちは、すなわち不幸だと考えてしまいますが、それも一概に言えないのです。

なぜなら、不安は欲の一つです。

何か自身として望ましい状態があるため、そこに到達するために不安がでているのであるため、その不安を取り除いていくと、必ず人としての成長があり、幸福度が上がっていくからです。

そして、そういった幸福度を高める努力をする行動が、一般の人たちからすると、我々をストイックな人間だと思わせるのです。

では、なぜ我々のような一見無駄なほど強い不安が出る人間が存在してしまうのかというところを考えてみたいと思います。

人間は、個々数十年で、急激に文化・経済・科学の発展があり、死のリスクが急激に低くなってきました。

例えば50年ほど前までさかのぼって考えてみてください。

昭和中期では、まだ子供たちが病気で亡くなってしまうリスクが、今よりも何10倍もありました。戦時中や戦前にさかのぼって考えてみてください。

生まれてきた子供たちの半分は成人になる前に死んでしまいます。

わずか数世代前にさかのぼるだけで、人間は、いとも簡単に死んでいたのです。

しかし現代では、人間が成人になるまでに死ぬということは非常に稀なことになってきました。

環境が急激によくなってしまったのに対して、脳の変化が追い付いてきていないため、不安が出ていると思われます。

では、これは我々の脳だけがそうなのかというとそうでもありません。

基本的に人間は、不幸な情報を好んでしまう傾向が強いことがニュースを見ているとよくわかります。

例えば、飛行機事故のニュースが良い例です。

飛行機事故は、一度起こると数百人が死傷する大惨事になります。

しかし、事故の死傷率を見れば、自動車事故に比べはるかに低いものです。

なのに事故が起きれば、報道で大々的に取り上げられます。

当然事故が起きれば取り上げるのに、事故の発生率が年々下がっていることなどは報道されることはほとんどありません。

なぜなら皆さんが関心がないことだからです。

テロによる被害も同じです。

世界的に起きているテロ事件で命を落とす人は、食中毒で亡くなる人の数よりも少ないです。ましてや先進国の人間が巻き込まれることは全体としては少数です。

世界的に見て人間は、益々安全に生きていけるようになっているのに、皆さんはその事実を知らず、不安な感情を掻き立てる報道に関心を抱いていませんか?

こういったことからもわかるように、我々に限らず、ほとんどの人間は不安という感情を適度に受け入れながら生きたいのです。

もう少し厳密にいうと、脳は常に欲を出していますが、この欲の一部が不安となり、常にこの感情に対して合理的な理由を探しているのです。

つまり、本来であれば、外的要因(環境が不安を生む要因となっている)によって不安になるのがすじなのですが、実際には人間の脳が本能として持っているセンサーが誤作動してしまうくらいに安全に生きていけるようになってしまったため、内的要因(脳の中で起きている生理的現象)によって不安が発生し、その不安という感情を合理的にするために、適当な理由を報道などから探し出しているのです。

つまり、我々が感じている不安の大半は内的要因によって発生しているもので、根拠がない不安なのです。

このことに気付くだけで、不安に対する向き合い方がまるで変ってきます。

我々は、自己覚知能力を高め、不安の原因を正確に理解することで、もっと合理的にエネルギッシュに活動することができるのです。

 

 

 

 

 

川崎登戸殺人事件についての専門家の意見について 突っ込ませてください

こんにちはにあです。

最近川崎登戸殺人事件(正式な事件名が不明なのですが)で世間が騒いでいて、私も小学生を狙った犯行だということで、とても胸糞悪い感情に陥りました。

なんでこんな事件に発展してしまったのかということが気になり、ニュースを連日見ていましたが、二つほど専門家の方の意見に突っ込みを入れさせていただきたい。

 

一つが、福祉の専門家が注意喚起していたことです。

「死ぬなら一人で死んでほしい」というメッセージを拡散しないでほしいということです。

私からすると限りなく無駄な注意喚起です。こんな注意喚起をしてるくらいなら原因を追究することに力を入れた方がいいと思います。

なぜ、ほぼ無駄だと言い切れるかといえば、社会に恨みのある人物がこのメッセージを見たら、「やはり世間は私を助けてくれない」と考え、第二の事件に発展するということであるが、根本的に人間の思考の仕方についての癖を理解していなと思った。

社会に恨みを持っている人がいるということで、それを基準に考えていきますが、恨みを持つ度合いやその期間というものも重要になってきますが、人を殺すに至るということは少なくとも正常な精神状態ではありません。(この精神状態については、次の突っ込みで詳しく説明します。)

異常な精神状態になっていくプロセスがあるわけですが、上記のような内容の一言で殺人衝動が発生するような状態ということは末期の状態といえます。

このような状態にある人間が、果たして「困っているなら話を聞くよ」などといった助けのメッセージに目を向けるでしょうか?

答えはNoです。

いつの時点で以下のような状態になるかははっきりと言えませんが、末期の状態と気うことは、すでに利く耳を持たない状態にあるということです。

そして、聞く耳がある状態というのは、時間的に数年単位で遡らなければならないほど過去のことであるということははっきりしています。

では、すでに利く耳を持たない状態とはどのような状況かを考えてみましょう。

今回の犯人は計画を立てています。武器も準備しています。

この時点で、少なくとも数日や数か月前から計画し準備していたことが伺えます。

計画の準備を始めているときに、その計画が反社会的だとわかっていれば当然誰にもばれずに進めることは想像できるかと思います。

そうすると、少なくとも計画を立て始めていた時には聞く耳が無い状態です。

今回の犯人は養育者に対する恨みなのか、養育者の実子が通っていた小学校に恨みを持っていました。

では、この犯人が、小学生の時からそのことについて恨みを持っていたのかといえば、それも考えづらいですね。であればなぜ、こんなに過去のことにさかのぼらなければならなかったのかを考える必要があります。

ざっくり行ってしまうと、この犯人は、社会との接点がほとんどなく、社会自体を即恨むことがなかったのだと想像できます。つまり、就職活動をしたけど就職先が見つからなかったとか、その程度の失敗だったのだと思います。また、小学校でいじめがあったことなども考えられます。

中学以降はいじめが無かったのかというとそうとも言い切れません。しかし、あえて小学生を狙ったのは、より多くを一度に狩ることができるからなのでしょう。

では、なぜ何十年もたってから小学生時代のことを恨むことになったのかといえば、

自分にとって一番恨みの強い出来事だったからです。

他人から見たら不可解に見えるかもしれませんが、本人にとっては、世の中を恨む理由が欲しかったのです。

自分が幸せになれない、あがいても不幸になるばかりなのは世の中が悪いからだと考える合理的な恨みの理由が大してなかったのです。

大した理由もないのに、自分自身の社会性の脆弱さから社会からはじき出されひきこもることになったことには目を向けず、恨むことを選んだわけです。

恨むことを選ぶ前には当然、なぜ自分はこんなに人生がうまくいかないのかと考え不安になっていた時期も相当に長くあったかと思います。

でも、いったん恨みを持つ生き方を選んだ人間は、自分ではなく、他人や社会が悪いという理由をひたすら作っていきます。

こんな状態にある人間が、自ら「困っているなら話を聞くよ」というような助けのメッセージをわざわざ見るか?

絶対に見ない。

これが、私が福祉の専門家に突っ込みたいことです。

恨みを持つプロセスを解明することのほうが今後の対策になるのではないか?

 

続いてメンタル系の専門家が言っていることですが、この犯人が、反社会性パーソナリティ障害や統合失調症だったのだろうという話です。

反社会性パーソナリティ障害については強く同意できます。なぜなら、人を殺せる状態にあるということは、それ自体がよほどの怨恨がある場合を除けば、ほとんどの場合反社会性パーソナリティ障害が関連しているからです。特に、今回は、自分以外はすべてが敵というような感覚を持ち合わせており、自分を特別視していると思われます。自分以外は同列で敵とみなしており、その敵をできるだけ多く倒すという発想があったとおみます。それを考えると、益々反社会性パーソナリティ障害を疑います。逆にこれを否定する理由は、私の中にありません。

しかし、統合失調症というとそれは統合失調症の方に対して誤解を生むリスクをはらんでいるので同意できません。

確かに、とても強く恨む感情を強く持ち続けた結果、統合失調症のような状態(妄想)になっていたことは想像できます。

だからと言って統合失調症だろうと思うのは根拠が不十分じゃありませんか?

逆に私から質問したいです。

犯人には陰性症状があったのか?

統合失調症になると、健常者の人たちと比べて明らかに殺人が増えるのか。しかもそれが特定の人間ではなく、不特定の人間を殺す根拠となりえるのか?

どちらもおそらくNOだと思う。

精神の異常を疑うなら、まずはひきこもりという状態がどのような病態なのかを考えるべきだと私は思う。

そして、このひきこもりの状態によってどのように何に依存しているのかを理解すれば、新たな病気をカテゴライズすることになる。

ひきこもりとは、家族への直接的な接触が乏しい状態であったとしても直接的な援助(金銭面の援助)を受けているとても都合の良い状態になっている状態です。

また、外部の情報を仕入れるためのインターネットや、時間をつぶすためのゲームなどが、その病的心理を助長しています。

家族を破綻させるその症状は依存症と同じと言えます。

この依存症が大きな要因となって、反社会性パーソナリティ障害へ発展していったのだと私は言いたい。

子供の発達障害の場合、注意欠損多動(ADHD)が原因で親や先生などにしこたま怒られた子供は、徐々に反抗的な性格が形成され、中学生あたりから、地域の悪いグループに加わり、ひいては反社会的組織との接点を持ち、違法薬物に手を染めて、反社会性パーソナリティ障害になる「DBDマーチ」と呼ばれる病気の進行の仕方がある。

大人になってからも、社会にうまく適合できなかった者がひきこもりし、家庭内暴力へ発展し、誰とも接点がなくなり、強い社会への恨みを積もらせていく。そして最後は他人を巻き添えに自殺するという現代の「大人のDBDマーチ」だといえないでしょうか?

これには一連のプロセスがあることが容易に想像できるので、こういったことを研究し、広く知っていただくことで、予防もできると思う。

まだ、世の中に適応できず不安がある方は、ぜひ、「お問い合わせ」からメッセージを送ってください。優しいことは言えませんが、やるべきことは明確に示すことはできます。どうすれば社会性を身に付けることができるの。

社会性を身に付けることができないのであれば、どこでどのように生きていけば、仲間ができるのかくらいは伝えられます。

 

ひきこもっている家族を抱えて困っている方、問題の家族を殺すだけの覚悟があるならご相談ください。あなたが望むような解決方法ではないにしても、殺して警察に捕まるよりはましな結果を出すことができます。

豊かな国ほど幸福度が低下する理由

みなさん幸せですか?

私は幸せです。

仕事柄幸福について考えることは多いのですが、先進国では、途上国に比べて精神疾患を抱えた方が増えるという話は以前から聞いていましたが、これが幸福度が落ちる原因なんだろうなと思っており、いろいろと調べていたところ、ついに一つの結論に至りました。

結論としては、精神疾患にかかるリスクが増えることと幸福度が落ちることはほぼイコールで考えられます。

では、なぜ先進国の人たちは幸福度が低下するかについて、私の考えを述べます。

人間に限らず生き物は、常に生き残るために外敵が近づいてきていないか、それ以外にも危険が迫っていないかなど、常に感覚器官を通じて警戒しています。この時に脳内では不安が発生しています。

しかし人間はほかの生き物と比べ、急激に環境を変化させることで、生存率が上がってしまいました。

基本皆さんは日常の中で死ぬかと思ったことってそれほどないかと思います。(私は一度もありません)

しかし、我々人間も少し前(例えば50年位前)までは大人になる前に死んでしまう子供も結構多くいました。もう少し遡ってみて考えてください。100年くらい遡れば戦争やら病気などでも結構な命が奪われていました。それこそ2人に1人以上が子供ができることなくこの世を去っていた時代です。

わずか100年の間に先進国ではほとんど死ぬことがなくなりました。

その結果脳内では根拠のない不安(危険がないかセンサーが働いている状態)が出続けてしまいます。この不安に対応した行動がとれないと幸福度が上がらないのです。

これだけ聞くと、ではなぜブータンなどの国ではこの不安センサーが誤作動しないのかという疑問が出てくるかと思います。

実はこの不安センサーというのが曲者で、一言でいうことができないのですが、「一生懸命、がむしゃら、無我夢中」などと言い表せるような生き方をしていると、不安が出なくなるのです。

例えば、仕事を例に考えていきましょう。

先進国ですと、さまざまな仕事があり、憧れの仕事ややりたくない仕事があります。

つまり選択肢がたくさんあり、努力によってその仕事が変わっていきます。

しかし、先進国以外ですと仕事はあまり選択肢がありません。

極端なことを言うと、生きるために今できることがかなり限定されているのです。

そのため迷うことなくその生きるための方法を必死に実践していきます。ここに迷いはありません。

一方先進国では迷いがあり、努力しなければやりたくない仕事をすることになります。

そんなやりたくないという気持ちがある時点で幸福度が落ちます。

そして「やりたくない仕事」=「ストレス」などと勝手に心で不満を増長させて、ストレス発散と言わんばかりに自分の好きなことをします。

この自分の好きなことの中に、インターネット・ゲーム・テレビなど人と接することのないエンターテイメントに入り込んでいくと、これらに依存していきます。また、お金を稼ぐことばかり考えている方も、同じようにお金稼ぎに依存していきます。

結果として、時間の浪費をするばかりで人生を振り返ることもなくより良い人生にすることをしなくなります。そうやって二次的にストレスをためやすい状態にしていきます。

こういった状態にある人たちは、世の中が悪いだとか時代が悪いなど、常に周囲に問題があるかのように考えています。解消されることのない世の中への不満。

しかし一番の問題は、自分自身が抱えている一番の問題が何なのかを考えていないことです。

自分自身が抱えている一番の問題は、どうやって生きていくのか。

そのためにはどうすればいいのか。という2つのことを考えて行動していくことです。

何かをあきらめて生きるということは、幸福ではありません。

ではあきらめたらそれで終わりかといえばそうではありません。

目標を変えればいいのです。

自分がの損だものが全て手に入る人間なんてだれ一人いません。

であれば、自分にできることを探す努力も必要です。

幸福度が低い人間というのは、ほぼイコールで努力をしていないということです。

何もしないということに人間の脳は慣れていないので、これからの時代は益々こういった不幸は大きくなっていきます。

AIが発達すれば人間の仕事(生きていくために必要な活動)を機械が肩代わりしてくれます。

そんな未来を、「機械に仕事を奪われる絶望的な未来」などと悲観する方が多いです。

実際多くの方にとっては今よりも条件の悪い仕事ばかりになってしまうのでしょう。

しかし、その分社会としては生き残りやすい環境に益々なっていきます。

生き残れるということはチャンスがあるということです。

そのチャンスに気付けるかどうかが今後の人間の幸福度に大きく差をつけるものになっていきます。

ポジティブなとらえ方で未来を予想すると。貧富の差はどんどん大きくなっていきます。

しかし、「貧しい」というとらえ方自体がもう古臭くなっていることでしょう。

なぜなら富裕層からしたらたしかに「貧しい」かもしれませんが。それは物質においてです。情報化が進み勉学にはお金があまりかからなくなるのであれば、内面まで貧しくなるわけではありません。

また、物質的に貧しいといっても、今よりも生きていくうえで便利なものに囲まれて生きていくことになります。

つまり、現代人よりも生活水準が上がっていくのです。

「貧しい」の基準はどうしても、現在の富裕層とそれ以外で比較されてしまうから永遠に消えないのですが、過去と比較してみることもだいじかとおもいます。

20年前に生活保護の方がスマートホンを持っていましたか?

富裕層だって持っていませんよね。

生活保護の方でもある意味で20年前の富裕層よりも優れた機器に囲まれて生活しているのです。

このことに気付けば何も不安になることはありません。

むしろどのように幸せになっていくかを考えていく余裕すらあるのです。

産業は生きていくために必要なもの(衣食住にかかわるもの)を作る割合が減り、人が楽しく生きるための産業が増えます。

これからの時代はどんどん新しい楽しみ方を考える時代だと私は予想しています。

これを不幸だと思う人は、どんな世の中でも不幸に生きる定めだと私は考えます。

昔だったら考えられないゲームがスポーツ化し、これを職業として賞金を稼いでいる人だっているのです。

「なんでも真剣にチャレンジしてみること」 が幸せへの第一歩ではないでしょうか。

人間の幸せは、不変だとは思いませんが、時代が変わってもそれほど変わるものではありません。

 

より多くの方が、このことに気付いて幸せを追求していただけたら幸いです。

 

 

 

もったいない医療費

先日60代の精神障害者が入院した時の医療費明細を見てびっくりしました。

原因不明で3日ほど集中治療室に入っていたのですが、結果はお尻の傷から菌が繁殖して体力が低下したとのこと。

彼はもともと何の目的もなく寝ることを楽しみに生きているだけの人間なので、Drから「もしものことがあった場合には、高度治療を受けるか」との問いに「必要ありません」ときっぱりと断りました。

それなのに医療費が17日の入院で150万円以上だったことにびっくり。

しかも障害2級以上なので医療費はただ。

つまりすべてが税金ということです。

彼の今の人生に価値があるかと聞かれたら私ははっきりと「無い」と答えるでしょう。

人生の価値は人それぞれですが、人に迷惑をかけることはあっても誰かのためになることはほぼ皆無の彼。なんの目標もなく、寝ることだけを求めて睡眠薬にしがみつく毎日。認知能力も衰えてまともな生活ができるようになる見込みが無い人生。そんな彼に150万円以上の税金を使って何になるのか。

私が彼を面倒見ているのは、税金をなるべく使わないためであったのに、結局どう転んでも税金食いにしかならない。

人としてくずだと本気で思います。

そんな医療費を児童に回せられるならどんなに世の中のためになるかと思う。

こんなことを書くと、「人の命を何だと思っている」と怒りの声も聞こえてきそうですが、そんなことを思った人にこそぜひ理解していただきたいことを今から少し書きます。

貧困国では、医療はいかに効率よく使えるかを考える。つまり、目の前の命よりも、その医療が担っている地域の生存率を上げることを最重要としています。

日本では命のやり取りというほど深刻な話ではありませんが、税金はあふれるほどあるわけではありません。そんな税金をどこに使うかということは考えざるを得ません。

額に限りがある税金をどこに回すかと考えたとき。特に生きる希望が無い彼に150万円の税金を使うくらいなら、児童などの未来あるところに税金を使っていただきたいと思う。そのほうが日本が豊かになる。日本が豊かになれば後進国も豊かになるチャンスが多くなる。

今回治療を受けて元気になって退院してきた彼が、今後どのような行動をとるのか?

今のところ、週末に渡した3000円の小遣いをその日のうちにエロ本とたばこで使い果たしてしまった。また問題を起こすのも時間の問題です。